旅行から帰ってきてからしばらくこのブログを書き続けるまで考えたことがなかったのですが、フィンランドってそもそもどうやってできた国なんでしょうかね。そうゆうことも調べずに旅行に行ってしまったのが恥ずかしいのですが、観光案内所のパンフにヘルシンキの歴史について書かれていたので載せておきます。調べてみると、ヘルシンキは国同士の争いに巻き込まれながら首都として成長した街であることを知りました。
昔の首都は南西部トゥルクにあった
1550年に時のスウェーデンの王様、グスタフ・ヴァーサによって築かれた街こそが今の首都、ヘルシンキなのです。当時の人口は500人余り。ロシア貿易においてエストニアの首都であるタリンに対抗するために築かれた街でした。当時のヘルシンキには商人が住んでいなかったので、グスタフ王は近辺の商人にヘルシンキに住むように命じたと言われています。当時、フィンランドの首都は南西部にあるトゥルクでした。
ヘルシンキ黎明期の中心地はヴァンハカウプンキラハティ湾周辺
ヘルシンキができた当時はヴァンター川の河口「ヴァンハカウプンキラハティ」に築かれたのですが、現在地に移されたのは1640年ごろだそうです。ヴァンハカウプンキラハティ湾はヘルシンキの北東部に位置しています。
1710年、ペストによって人口の3分の2が死亡
ヘルシンキの街は少しずつ人口を増やしていったそうですが、1710年にペストが流行したことで街人口の3分の2が死亡、一時は600人程度まで減りました。
3年後、ロシア海軍はヘルシンキへの侵攻に1万7000人もの兵士を投入。対抗したいフィンランド軍でしたがヘルシンキには2000人の兵士しかおらず、負け戦は目に見えていました。そこでフィンランド軍はヘルシンキを捨てることを選択。街に火を放って一晩で焼け野原と化し、その後は8年間にわたってロシア軍が占領したそうです。1721年、ニュスタッド(またはウーシカウンプキ)講和条約によって、スウェーデンはロシアに賠償金を支払うことでヘルシンキはフィンランドの土地として回復しました。
ロシアによる3度の侵攻、条約締結
しかし、1741年にロシアはヘルシンキを再び占領します。この時敗戦したスウェーデンはロシアとの休戦を持ちかけた際に、ロシア側から初めてフィンランドの独立に関する宣誓書を使者に持ち帰らせたそうですが、戦争が再開されてロシア軍がフィンランドを占領すると、この話は立ち消えになったそうです。
1743年にロシアとスウェーデンはトゥルク条約によってフィンランドの南東部を除いてスウェーデンに返還されることになりました。
1748年になると、スウェーデン王国はヘルシンキ南東にある島に「スオメンリンナ海上要塞」の建設を開始。当時は無敵と言われた要塞でしたが、1808年に再びロシアが侵攻してヘルシンキを占領した際、スメオリンナは2カ月間にわたり包囲されて、戦わずに降伏したそうです。ちなみに、スオメンリンナ海上要塞はヘルシンキの人気観光スポットで、歴史イベントやガイド付きツアーが催されています。
ロシア侵攻の翌年(1809年)、スウェーデンとロシアは平和条約を結び、フィンランドはロシア領の一部となってしまいました。時のロシア皇帝アレクサンドル1世は、フィンランドの首都をトゥルクからサンクトペテルブルクに近いヘルシンキに移すことにしました。こうしてヘルシンキは首都として栄えることになったのです。
1812年にヘルシンキへ首都移遷、1917年に独立
ヘルシンキの首都移遷は1812年のこと。ここから1852年にヘルシンキのランドマークである大聖堂やニコライ教会が完成するなど徐々に人口を増やしていき、1900年代初頭には10万人を突破。第一次世界大戦時にはフィンランドは戦禍を免れたこともあって、ヘルシンキも当時の町並みを残しています。そして1917年12月6日、フィンランドは独立国として承認され、ヘルシンキもまた独立国の首都として認められるようになったのです。
時のスウェーデン国王によって作られた小さな街は、疫病やロシアとの戦争に何度も巻き込まれながらも、その度に存在感を増していき、ついに独立した国家の首都になることができたんですね。
フィンランドとスウェーデンの関係
こうやってフィンランドの歴史を勉強すると、今の近代的なイメージと重厚感のある町並みも違った風に見えてくるものです。スウェーデンとフィンランドはスポーツなどではライバル意識がメラメラだと聞きますし、本家と分家みたいな意識が未だに続いているんですかね。
ヘルシンキの街を歩くと至るところにスウェーデン語があふれていたので仲が良いのかと思ったら意外とそうではないみたい。隣国同士の仲が良くないのは世界共通なんでしょうか…。
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